[シリーズ いせはらの縄文遺跡・・・2]

 大山山頂遺跡



大山遠景(伊勢原市西富岡八幡橋付近より)
  伊勢原市No.4遺跡
  所在地 伊勢原市大山山頂

【大山信仰の概要】
 大山は丹沢山地東南部に聳える標高1252mの神奈備型(ピラミッド形)の孤峰で、伊勢原市・厚木市・秦野市の3市の境界をなす。前面が開けた平野となっていて遠方からもその姿を望むことができ、相模国の象徴として万葉集にも「相模峯」とうたわれている。それは「大山」という名前が、普通名詞であることによってもわかる。このほか「阿夫利山」「雨降山」「如意山」「大福山」など様々な別名が付けられた。

 大山への信仰は広範囲にわたる。古くより、死後の霊魂の赴く山とされ、また山頂には常に雨雲がかかり(雨降山の由来)と呼ばれ農民に雨乞いの神として信仰された。さらに漁民からは航海の目印として信仰された。また朝廷や鎌倉幕府、室町幕府、後北条氏、江戸幕府など時の為政者からも信仰が寄せられたほか、江戸時代には現世利益を願う江戸っ子や水を必要とする町火消しなども盛んに訪れ、その様子は浮世絵や落語「大山参り」をはじめとする文芸作品で盛んに描かれている。
 古来、山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって(寺院側の勢力のほうが強かったが)大山信仰の核となっていた。阿夫利神社は祟神天皇の頃の創建という社伝を持つ、『延喜式』の神名帳にも名のある古社で、山自体を神格化したものである。また山頂の自然の大岩を御神体とすることから「石尊」とも呼ばれる。、大山寺も天平勝宝7年(755)に奈良東大寺初代別当の良弁僧正が両親のために開いたという縁起を伝える古寺で、鎌倉期の鉄造不動像(国重文)を本尊とする。弘法大師などの伝説も残るが実態は明らかでない。しかし、大山の天狗は有名で、戦国時代には修験道本山派の棟梁が訪れるなど修験者の修行地として知られたのは確かである。彼らはしばしば後北条氏に従って戦っており、これを危険視した徳川家康によって近世の初期に改革が行われた。修験者は山を下り、信徒に御札を配ったり、宿泊所を提供する「御師」となって活躍し、大山信仰の拡大に寄与した。その活動範囲は明治時代の記録では遠く福島・新潟・長野、あるいは伊豆諸島まで広がっていた。幕末から平田派国学と接触があった大山では明治の神仏分離の際、神社が主導権を握り国学の碩学−権田直助を迎え、御師は先導師と名を改め神社の傘下に入った。その後、県社の社格が与えられている。一方、大山寺は一時衰えたものの真言宗大覚寺派準本山・関東別院の寺格を誇っている。
 ケーブルの開通や、戦後一帯が大山丹沢国定公園に指定されたことなどにより、近年は登山の目的が信仰からハイキングなどに移り、いまなお多くの人が訪れている。

調査状況(当時の新聞より) 【山頂出土の縄文土器】
 1959年、大山の総合調査の一環として、山頂の発掘調査が計画された。これは、既に明治初年に常滑焼壷や和鏡などが出土して社務局に保管されていたため、他にも遺物の残っていることを予想してのことである。
 調査は翌60年の8月に、県教委の赤星直忠、三上次男、岡本勇らによって行われ、山頂に3ヵ所のトレンチを設定した。このうちAトレンチの盛土中から加曽利B式および安行式の土器片(約60片)が出土した。
 土器はいずれも全体が復元できるものではなかったが、整理の結果7〜8の個体に分けられた。内訳は深鉢形土器4〜5個、注口土器1個、精製丹塗土器2個である。
 深鉢形土器については、底部にアンペラ圧痕が認められ、また1個には原体不明の圧痕もみられた。また、底部の径だが、10cm程度の比較的大きなものと、4.5cmの比較的小さなものがあり、後者は安行(1・2)式と考えられている。
 注口土器は注口部のある胴部の破片が見つかったもので、「く」字状に屈曲し、上に平行の凹線があるという。これについては中部地方的な要素が認められるという。
 また、精製丹塗土器は平行線が見られるもののモチーフは不明で、器形も不明。丹塗は表面のみだという。

 以上は、調査概報(赤星 1960)にある岡本氏による見解である。
 後日、赤星氏は県立博物館の講座の中で「断面図を検討しましたところ、真中の塚の底にある黒土というのはもとの山頂の地表面だと分ったんです。地上に土器片をひとかたまりにして置き、周囲を掘った土をその上に盛り上げたのだと分りました」と述べている。当時の新聞は大きく報道し、この講座も好評だったようだが、この調査の正式な報告書は出ていない。従ってこのページも現在公表されている僅かな資料を集成して作っているのであるが、県埋文センターには遺物はもちろん、赤星氏の残した図面や写真等の資料が残されているので(c)、そうした資料の公刊が待たれる。
 実は私も、遺物が保管されている神奈川県立埋蔵文化財センターで、これらの土器を見たことがあるのだ。しかしその時はまだ、詳しいことも知らず、ただ「見た」という程度であった。

大山山頂出土縄文土器 【土器の意義と阿夫利神社の起源】
 毎年正月になると伊勢原駅には「悠久四千年−大山阿夫利神社」というようなポスターがいくつか張ってあった。もちろん山頂の縄文土器を根拠にしたもので、神道史家の西田長男による阿夫利神社の起源を縄文時代まで溯らせる見解(西田 1976)がもとになっているだろう。
 しかし、そもそもこの縄文土器が縄文人の手によってここまで持ってこられたものか、あるいは後世の人が持ちこんだものかということも明らかではないのである。きちんとした遺構に伴ったものではなく、盛土中から出土したため本来の位置も明らかではない。前述の講座で赤星氏は、山伏が塚を作る時に珍しいものを入れるという修験者の話を根拠に鎮め物と考え(赤星 1977)、最近改めて大山を概観した小出義治も、特別の感情があったとは思えないとして、赤星説を支持している(小出 1998)。

 しかし、これだけの資料で性格を考えるのはなかなか難しい。そこで、他の山頂遺跡の例を見てみたい。山頂もしくは山腹の縄文遺跡については、岡本孝之、兼康保明および原田昌幸によってまとめられており(岡本 1986・兼康 1996・原田 1998)、これらを元に大山と似たような山頂・山腹遺跡を紹介する。

 男体山:標高2250mの8合目滝尾神社付近。石鏃。
 雲取山:奥秩父。標高2018mの山頂直下の水場。打製石斧。
 甲斐駒ヶ岳:標高2966m。後期の無紋土器。1988年信藤祐仁氏採集。
 三ツ峠山:標高1780m。諸磯式土器、石鏃、石匙、勝坂式土器
 編笠山:八ヶ岳。標高約2400m付近。黒曜石製石鏃。藤森栄一氏採集
 蓼科山:八ヶ岳。標高2350.3m。石鏃。
 伊吹山:標高1377m。石鏃5本。1937・39年。測候所の伝田技師採集。この他3本他日採集。
 比叡山:717mの山腹の堆土中より赤茶色チャート製石鏃、石屑。1978年県教委発掘。大正期にも石鏃採集。
 菊水山:六甲山系。標高458.9m。石鏃、石錐状石器。1972年兵庫県自然保護協会・赤松啓介氏採集

 次に各氏の見解を紹介すると、岡本氏は神奈川・東京・長野の遺跡地図をもとに36遺跡を紹介し、その大部分の性格を交通路上の遺跡と捉えながらも、大山山頂については「単なる物資の交通路とはみなしがたい。広く平野部を見下ろすことのできる大山へは、そんな目的をもってやってきたのかもしれない」と述べている。兼康氏は菊水山・比叡山・伊吹山をはじめ山頂遺跡8例を紹介し、いずれも「後世、信仰の対象となるような山容」であり、単なるキャンプサイトではないと考えた。出土する石鏃については祭祀の際矢を使う民俗例を紹介している。原田氏は山頂遺跡については10ヵ所を紹介しているが狩猟活動の範囲と捉えられている。
 このような考えに基づけば大山への信仰を縄文時代まで溯らされることができる。

 以上、長々と先学の諸説を紹介してきたが、結論を言うと、私は、大山山頂の資料だけでは縄文期の大山への信仰を明らかにすることはできないと考える。もっと発掘してみれば分るのだろうが、そうもいくまい。
 つまり内部からの考察はこのくらいが限度であり、あとは山麓の遺跡を調べ、大山への信仰の要素を確かめる他ないと考える。これについては別ページを準備中である。


常滑焼壷・和鏡(県史より) 【縄文以降の遺品】
 さて、大山山頂からは、縄文土器以外にもいくつかの遺物が発見されている。古く昭和初年に大場磐雄によって壷と鏡が考察され(大場 1936)、修験者の行場跡として知られており、60年の発掘では火焚の跡が検出された。
(出土時・所蔵者の記載のないものは1960年の発掘、県埋文センター蔵)
《弥生土器》??
《須恵器》断片1。なお、1991年、山の考古学研究会の合宿時、須恵器片が採集されている(古庄 1995)。
藤原期
《双鳥蝶草木文鏡》径11.2cm・高0.7cm・縁厚0.35cm。1879(明治12)年出土、社務局蔵。
《常滑焼壷》和鏡はこの中にあったという。1879(明治12)年出土、社務局蔵。
《須恵室壷》藤原期?。高台付壷断欠も。1879(明治12)年出土、社務局蔵。
室町期
《青銅製五重塔》底部幅3.5cm・高さ12.7cm。室町期と推定。
《土師器》7〜10世紀ごろのもので、修験者に関わるものと推定されている。
《素焼八角蓮華座》土師器片を伴って出土した。1991年にも採集されている。
《小型土製観音座像》8体分。1964年の山頂の石垣工事の際、石工飯田氏が掘り出した。県埋文センター蔵。
五重塔・泥仏(平塚市博物館図録より) 江戸期
《陶片製硯》
《古銭》宋銭(熙寧元宝1、元豊通宝3、天聖元宝1、大観通宝1)、明銭(洪武通宝1)、寛永通宝49(1991年にも1枚表採)、文久永宝1。
《陶磁器片》
《鉄釘・銅釘など》
 本社は何度か火災にあっており、その際処分されたものと見られている。

【図・写真】
・大山遠景(伊勢原市西富岡八幡橋付近より) 93年頃撮影
・調査状況(神奈川新聞1960.8.25より)
・縄文土器(原田 1998より)
・常滑焼壷・和鏡(赤星 1979より)
・五重塔・泥仏(平塚市博物館編 1987より)


【資料】
・大場磐雄  1936 「関東に於ける修験道流布の考古学的一考察」『上代文化』14
           (『神道考古学論攷』1943、『山岳宗教史研究叢書』1 1975 名著出版 に収録)
・赤星直忠  1960 『大山調査概報』(埋文センター蔵、文は「内海1996」、図は「小出1998」に転載)
・赤星直忠  1965 「神奈川県中郡伊勢原町大山山頂遺跡」『日本考古学年報』13(「内海1996」に転載)
・西田長男  1976 「神社の起源の古さ−式内比比多神社および阿夫利神社を中心に−」『式内社のしおり』2
           (『日本神道史研究』8 1978 講談社 所収)
・赤星直忠  1977 「大山の話」『かながわ文化財』73 神奈川県文化財協会
・赤星直忠  1979 「大山山頂経塚」『神奈川県史』資料編20 考古資料 神奈川県
・蘆田伊人編 1985 『新編相模国風土記稿』第3巻 大日本地誌大系21 雄山閣(原書は天保年間江戸幕府編)
・岡本孝之  1986 「山の上の縄文人」『考古学の世界』慶応義塾大学民族学考古学研究室編 新人物往来社
・平塚市博物館編 1987 『大山の信仰と歴史』平塚市博物館
・有賀密夫  1989 『大山門前町の地理的研究』自費出版
・圭室文雄編 1992 『大山信仰』民衆宗教史叢書22 雄山閣
・古庄浩明  1995 「大山阿不利神社山頂表採遺物について」『山の考古学通信』4
・内海弁次  1996 『相州大山』神奈川新聞社
・兼康保明  1996 『考古学推理帖』大巧社
・神奈川県立埋蔵文化財センター 1997 「赤星ノート市町村別目録(3)」『神奈川県立埋蔵文化財センター年報16』
・小出義治  1998 「相模大山」『季刊考古学63』雄山閣



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