大山への信仰は広範囲にわたる。古くより、死後の霊魂の赴く山とされ、また山頂には常に雨雲がかかり(雨降山の由来)と呼ばれ農民に雨乞いの神として信仰された。さらに漁民からは航海の目印として信仰された。また朝廷や鎌倉幕府、室町幕府、後北条氏、江戸幕府など時の為政者からも信仰が寄せられたほか、江戸時代には現世利益を願う江戸っ子や水を必要とする町火消しなども盛んに訪れ、その様子は浮世絵や落語「大山参り」をはじめとする文芸作品で盛んに描かれている。
古来、山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって(寺院側の勢力のほうが強かったが)大山信仰の核となっていた。阿夫利神社は祟神天皇の頃の創建という社伝を持つ、『延喜式』の神名帳にも名のある古社で、山自体を神格化したものである。また山頂の自然の大岩を御神体とすることから「石尊」とも呼ばれる。、大山寺も天平勝宝7年(755)に奈良東大寺初代別当の良弁僧正が両親のために開いたという縁起を伝える古寺で、鎌倉期の鉄造不動像(国重文)を本尊とする。弘法大師などの伝説も残るが実態は明らかでない。しかし、大山の天狗は有名で、戦国時代には修験道本山派の棟梁が訪れるなど修験者の修行地として知られたのは確かである。彼らはしばしば後北条氏に従って戦っており、これを危険視した徳川家康によって近世の初期に改革が行われた。修験者は山を下り、信徒に御札を配ったり、宿泊所を提供する「御師」となって活躍し、大山信仰の拡大に寄与した。その活動範囲は明治時代の記録では遠く福島・新潟・長野、あるいは伊豆諸島まで広がっていた。幕末から平田派国学と接触があった大山では明治の神仏分離の際、神社が主導権を握り国学の碩学−権田直助を迎え、御師は先導師と名を改め神社の傘下に入った。その後、県社の社格が与えられている。一方、大山寺は一時衰えたものの真言宗大覚寺派準本山・関東別院の寺格を誇っている。
ケーブルの開通や、戦後一帯が大山丹沢国定公園に指定されたことなどにより、近年は登山の目的が信仰からハイキングなどに移り、いまなお多くの人が訪れている。
【山頂出土の縄文土器】
1959年、大山の総合調査の一環として、山頂の発掘調査が計画された。これは、既に明治初年に常滑焼壷や和鏡などが出土して社務局に保管されていたため、他にも遺物の残っていることを予想してのことである。
調査は翌60年の8月に、県教委の赤星直忠、三上次男、岡本勇らによって行われ、山頂に3ヵ所のトレンチを設定した。このうちAトレンチの盛土中から加曽利B式および安行式の土器片(約60片)が出土した。
土器はいずれも全体が復元できるものではなかったが、整理の結果7〜8の個体に分けられた。内訳は深鉢形土器4〜5個、注口土器1個、精製丹塗土器2個である。
深鉢形土器については、底部にアンペラ圧痕が認められ、また1個には原体不明の圧痕もみられた。また、底部の径だが、10cm程度の比較的大きなものと、4.5cmの比較的小さなものがあり、後者は安行(1・2)式と考えられている。
注口土器は注口部のある胴部の破片が見つかったもので、「く」字状に屈曲し、上に平行の凹線があるという。これについては中部地方的な要素が認められるという。
また、精製丹塗土器は平行線が見られるもののモチーフは不明で、器形も不明。丹塗は表面のみだという。
以上は、調査概報(赤星 1960)にある岡本氏による見解である。
後日、赤星氏は県立博物館の講座の中で「断面図を検討しましたところ、真中の塚の底にある黒土というのはもとの山頂の地表面だと分ったんです。地上に土器片をひとかたまりにして置き、周囲を掘った土をその上に盛り上げたのだと分りました」と述べている。当時の新聞は大きく報道し、この講座も好評だったようだが、この調査の正式な報告書は出ていない。従ってこのページも現在公表されている僅かな資料を集成して作っているのであるが、県埋文センターには遺物はもちろん、赤星氏の残した図面や写真等の資料が残されているので(c)、そうした資料の公刊が待たれる。
実は私も、遺物が保管されている神奈川県立埋蔵文化財センターで、これらの土器を見たことがあるのだ。しかしその時はまだ、詳しいことも知らず、ただ「見た」という程度であった。
【土器の意義と阿夫利神社の起源】
毎年正月になると伊勢原駅には「悠久四千年−大山阿夫利神社」というようなポスターがいくつか張ってあった。もちろん山頂の縄文土器を根拠にしたもので、神道史家の西田長男による阿夫利神社の起源を縄文時代まで溯らせる見解(西田 1976)がもとになっているだろう。
しかし、そもそもこの縄文土器が縄文人の手によってここまで持ってこられたものか、あるいは後世の人が持ちこんだものかということも明らかではないのである。きちんとした遺構に伴ったものではなく、盛土中から出土したため本来の位置も明らかではない。前述の講座で赤星氏は、山伏が塚を作る時に珍しいものを入れるという修験者の話を根拠に鎮め物と考え(赤星 1977)、最近改めて大山を概観した小出義治も、特別の感情があったとは思えないとして、赤星説を支持している(小出 1998)。
しかし、これだけの資料で性格を考えるのはなかなか難しい。そこで、他の山頂遺跡の例を見てみたい。山頂もしくは山腹の縄文遺跡については、岡本孝之、兼康保明および原田昌幸によってまとめられており(岡本 1986・兼康 1996・原田 1998)、これらを元に大山と似たような山頂・山腹遺跡を紹介する。
男体山:標高2250mの8合目滝尾神社付近。石鏃。
雲取山:奥秩父。標高2018mの山頂直下の水場。打製石斧。
甲斐駒ヶ岳:標高2966m。後期の無紋土器。1988年信藤祐仁氏採集。
三ツ峠山:標高1780m。諸磯式土器、石鏃、石匙、勝坂式土器
編笠山:八ヶ岳。標高約2400m付近。黒曜石製石鏃。藤森栄一氏採集
蓼科山:八ヶ岳。標高2350.3m。石鏃。
伊吹山:標高1377m。石鏃5本。1937・39年。測候所の伝田技師採集。この他3本他日採集。
比叡山:717mの山腹の堆土中より赤茶色チャート製石鏃、石屑。1978年県教委発掘。大正期にも石鏃採集。
菊水山:六甲山系。標高458.9m。石鏃、石錐状石器。1972年兵庫県自然保護協会・赤松啓介氏採集
【縄文以降の遺品】
江戸期